悲しみには底があるのか?

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SNSを彷徨った死別直後

夫と死別した当時、仲間の欲しい私はネットの中を彷徨っていました。

当時流行っていたのはmixi(ミクシィ)で、その中で死別のグループにアクセスしたのを覚えています。

自分だって悲しくて仕方ないのに、一瞬でグループに対して違和感を覚えました。

ちょっと参加したけれど、何も発言もせず、すぐにそのグループから抜けました。

悲しいを共感して欲しいはずなのに、悲しいがたくさん集まったところにはどうにも居られなかったんですね。

そのあと死別のシングルマザーとリアルに出会うまでは、それはそれは孤独でした。

でも、私はどうしてもそこにいられなかったのです。

私にとって最初の選択だったのかもしれませんが、今となってはそれで良かったと思います。

悲しみの底を決めるのは自分

悲しいという感情は、もしかしたら、底なんてなくて、深くしようと思えばいくらでも深く深くまでいけるのかもしれません。

あの時の私は、寂しさ、悲しさの底にいたと思っていたのだけれど、それ以上深くはいきたくなかったんだろうと思います。

そこが私にとっての「底」で、「底辺」で、そこから上がりたいと思ったし、これ以上深みにはまりたくはなかったです。

心がむき出しの状態だから、きっとそういう時の心持ちは環境によって染まりやすくもなるのかもしれません。

だから、環境の確認を

死別して、少しでも良くしたいと思えば、前に進もうとする人に出会えたり、もう乗り越えている人に出会えたり、死別ではなくても難局を乗り越えた人に出会えるでしょう。

それを看板つけて歩いている人はいないけれど、案外キラキラして見える人がそうだったりもします。

ふとした時に、そういう話になったり、そういう人と偶然出会えたのならば、きっと自分の求めている方向性を見つけたということ。

悲しい、誰にもこの気持ちはわかってもらえないというネガティブで包まれていたとしても、本来の自分の求めるものはきっと引き寄せられるだろうし、逆に違和感を持つことでしょう。

こればかりは選択ですから、いいとか悪いとかではないです。

ただ、不安に思う時に、一旦自分の感覚を研ぎ澄ませてみてください。

死別後に今まで選択してきたことはどういうことだったのだろう?とか、どういうことを求めていたんだろう?とか、どんな言葉に安心したんだろうとか、とにかくそういう自分の選択を振り返ってみてください。

それで自分が何を求めていたのかわかります。

もちろん、それに気がついて、選択を変えることもいくらだって、いつからだってできます。

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