私は高校卒業まで、とても根性がなく部活で頑張ったとかそういう経験はありません。
運動苦手で、でも家庭の中では運動=正解みたいな風潮がありました。
私はそこにハマろうと頑張って入部はするものの、つまらないし、辛いし、すぐに帰宅部と化していくのです。
自分の嫌いなことを無理やりやっていたから、そりゃ続かない。
ヲタク的な自分を認めて、漫画とか文学とか美術とか…そちらの方向にどっぷり浸かればよかったなぁと、人生の前半は後悔のオンパレードです。
太っていたしね。
でも、さすがに親の言うことに従ってきた人生も、大学に進む頃から徐々に自分の道を模索し始めるんですね。
まずは嫌を排除するって言う感じでした。
女子校は嫌。
女子ばかりの環境にかなり違和感を覚えて、(まぁ高校で痩せたと言うのもあり)母の勧める女子短大には行きたくないと言う思いで共学の大学を目指します。
全く勉強をしていませんでしたから、かなりハードルは高かったけど、なんとか4流大学(失礼)に引っかかります。
これは本当に嬉しかったなー。
私は自分で人生を選び勝ち取る経験をしたのです。
これを機に、嫌を排除するわがままな20代を過ごすことになるのですが、この選択で、私は夫と出会うわけです。
この大学で、私は夫と出会ったんだなー。
懐かしい。
あの時、いい子の自分でいて、母の勧め通り短大に進んでいたら、全く別の人生。
死別という経験もしていなかったかもしれないし、子供だって、結婚だって、どうだったかわかりません。
そんなことを考え始めたら止まらないし、今が変わるわけではない。
それは夫との死別とも似ていて、あの時あんなことを言ってしまったから、とか、あの時少しだけ早く電話をしていたら、とか、色々と思うことはあります。
死別ともなると、その後悔とか過去を思い巡らす意味って少し違うような気もします。
そうやって思い巡らし、辛いという思いや後悔を味わうのも大切な時間なような気もします。
でもね、そこにとどまっていては悲しすぎませんか?
すぐに今を受け入れなきゃいけない訳では全然ないんですけど、でも、少しずつ受け入れていけば今日が変わり明日が変わる希望につながります。
なんていうか、失敗って人生にはなくて、受け入れて修正していけば良い。
亡くなってしまうと、修正のしようがないからなんだかとてもダメな気がしてしまうけど、そうではないと思うんです。
あの人はあの人なりの人生があって、それをある意味全うした。
彼の人生のやるべき大きな事はやったような気がしています。たくさんのやり残しはあるけどね。
それを私はだいぶ受け入れられた、そう感じています。
なんだか、まとまりませんが(汗)、過去のグダグダのわたしもわがまま放題の私も、夫を亡くしてから髪振り乱して頑張ってきたわたしも、オールオッケー。
なんて愛しい人生なんだろう!と心の底から思える日まで。
↓クリックして応援よろしくお願いします。
コメント