生きながらえていた時間を過ごしたからわかります
私の今一番ハマっている動画で「生きながらえるのと生きていることは違う」と言っていて、その言葉に妙に腑に落ちる自分を感じました。
死別当時はなんとか生きながらえていました。
それには子供が居たからと言うのが一番の理由だったと思います。
当時はそんなことにすら疑問も持たずにいました。
でも、それを抜けた時に、もし私と同じように夫を亡くし、生きながらえているような生き方をしているのであれば、少しでも早く自分が「生きる」方へフォーカスするようにしてほしいと思い、今日はそのことについて綴りたいと思います。
生きながらえることは、変わらないことでもあります。
人はある部分で、変わらないことに心地よさも感じますから、そちらに流れがちです。
でも、私にとって生きながらえていた時間はとても長くて出口のないように感じる重苦しい時間でした。
だから、少し自分に変化と言う負荷はかかるけれど、生きることにフォーカスをして、自分なりの生き方を積み重ねていきたいですね。
生きるとは
生きるとはわがままに生きること。
我が儘ですから、自分らしいと言うことですよね。
自分らしく、我が儘に生きてもなお自分の周りにいてくれる人がいるなら、その感謝度はかなり深まります。
本当の自分のありのまま(我が儘)でいる私と一緒にいてくれてありがとう、と素直に湧き上がります。
その関係は強く深くなりますよね。
逆に、そこで合わなければ、もう追い求めることは不要です。
私は、夫を亡くしてから、夫の為に気を回していた自分を捨てました。
夫はいませんし、そこに喜びは生まれず、頑張っても虚しさしか生まれないと分かったからです。
夫のためではなく、自分のために生きると決めたら、とても楽になりましたよ。
自分の残された時間を自分の喜ぶために使いましょう。
自分をご機嫌にすることで徳を積める
私は昔から形から入るタイプでした。
そこに到達できず、何度挫折したことか。
それは設定がやや高かったからかもしれません。
今はかなりハードルを低く設定して、自分のご機嫌を取るようにしています。
それが一つの徳積みになるからです。(私は、毎日10個書き出すようにしています。)
自分の我が儘でいて、自分らしくいられるから、ご機嫌でいることができる。
それを心がけていると、実は相手のためにもなっていて、徳を積めるということです。
それが習慣になると、周りからの扱いや声のかけられかたも変わってきます。
色々なことにお誘いをいただいたり、声をかけられることが増えてきます。
だから、自分らしくいること、我が儘で自分のために生きることが徳を積むことになり、生きながらえるのではなく生きることにつながるのかなと最近実感しています。
我が儘でいることに許可を出してくださいね。
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