夫がいない、寂しい状況がベースにあるのだからこそ意識すること。

スポンサーリンク

<この記事を書いた人>

スポンサーリンク

自分の頑張りを、自分でどれだけ認められているでしょう?

本当に日本人はなんて謙虚なんだろう!とセッションを重ねるたびに思います。

そして「横並び」もある意味正しさの一つのように、なんとなく刷り込まれているように思います。

だから私自身、夫が34歳と言う若さで亡くなり、いわゆる大多数から外れたから、時にとても行きづらかったと思います。

私が昔から、自分の頑張りをもう少し素直に認められていたり、いわゆる「個性的」ということに対して、むしろそれでいいと認められいたら、もう少し生き易かったのかもしれないと思うこともあります。

でも、私は他の人より目立つことをなんだか恐れていたし、目立たぬように生きてきたように思います。

目立つほどではないけれど、いわゆる普通の家族のような形ではない自分になって、そばで見ている夫もいない場合、自分の1番の応援者は自分以上の人間はいないと思ったのです。

私の周りであなたは大丈夫!あなたは頑張っていると言う人の声かけがあったのもあります。

それは嬉しかったし、嬉しいと言う気持ちを持ちたかったと言う経験があって、私は私の頑張りを徐々に認めてあげられるようになりました。

そのほうが、自分が喜んでいる。

ないほうにばかり目が行って、あの人は私より大変な状況なのに、私の頑張りは足りないとか、はたまた、あの人はあんなに恵まれた環境なのに、自分のことを頑張っていると言い過ぎじゃない?と批判したりとか、対周りの状況に左右されてしまうのはもったいないと気がつきました。

なぜなら自分のその時の気分次第で、取り方もかなり違うから。

自分が足りないと考えているときは、頑張ってもなんだか報われない時だっり、環境が恵まれている時は自分がとても誰か(夫)に甘えたかったり、何かを足りないと感じている時だったり、自分に無理をさせているからかもしれません。

まず自分がある程度自分の頑張りを認めて、声をかけて、自分でも納得できて、自分がなんとなく満たされていたら、周りが気にならなくなったりします。

でも、自分はまず夫がいないと言う、ちょっと寂しい状況であることは確かです。

だから、自分が自分を認めるのも少し大袈裟くらいでないと追いつかない。

むしろ謙虚だったら、もっともっと追いつかないでしょう。

今日で謙虚はやめましょう(笑)。

十分頑張っている!もしかしたら頑張りすぎなんじゃない?私。

くらい思っていいと思うんです。

だから、自分の大切にしてもいいと許せるし、許したら、満足する時間も増えて、周りもだんだん正直どうでもよくなるから(汗)。

周りを気にするより、自分を気にする、つまり気にかける方が楽しい。

楽しいことは続きますし、もっともっとやる気になるから、これはいいスパイラルが始まります。

そこに、途中途中で夫のことを思い出し、悲しくなったり寂しくなったりはありますよ。

でも、だからこそ、です。

そこにはちょっと慣れるまで頑張りも必要かもしれません。

でも、忘れないで。

自分はダメなんかじゃないし、頑張っていないわけでは全然ないってことです。

意識していきましょう!

 

パートナーを亡くした方のカウンセリング

当事者として、寄り添ったカウンセリングをいたします。

お申し込みはこちら

↓クリックして応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 家族ブログ 死別へ

コメント