本当は「幸せになる」と決めている

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<この記事を書いた人>

今日の東京はどんよりな朝。珍しく連日お散歩に出ています。秋めいているのに、暖かい朝。

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夫を亡くした当初、私はもう一度笑えるとは思っていませんでした。

過去の自分の写真を見ることが、最も辛く、胸が締め付けられる様な想いでした。

こんな風に笑えることは絶対にない。

そう思っていたのです。

でも、今は笑っています。

些細なことでさえ笑えるのです。

不思議ですよね。

でも、時を経てなんとなく感覚を同じくしている方も、たくさんいらっしゃるじゃないかなとも思うのです。

私たちは、人生辛いことも悲しいことも、楽しいことも嬉しいことも、色々と経験しています。

その都度、深さとか、度合いが違うけれど、でも日々そのどこかしらを経験して過ごしているんですよね。

その時の自分の体調、その時のお腹の空き加減、その都度都度、似た様な毎日でも、感じ方が変わります。

人生とは、生まれた時に「幸せになる」と決めていて、その模索の旅なのではないか、とも思うのです。

だから、色々な経験がやって来る。

簡単に言えば、「おいしくない」と感じた経験があるから、「おいしい」がわかるわけで、寂しさを知っているから、コミュニティの安堵感も得られるわけです。

だから、全ての経験は必要。

だからって夫を亡くすなんて経験は、極端すぎるでしょ、と思うことも多いですよ。

でも、私は幸せのハードルは、夫との死別で確実に下がっているのも確か。

日々何もなく平穏なこと、こんな幸せないですよ。

死別後のバタバタ、心の下がり具合を思い出すたびに、もうあの経験はしたくないと思うし、私以外の人に経験し欲しいとも思いません。

でも、実際に起きてしまった事実を、どこかのタイミングで受け入れるしかないんですよね。

いつまでも受け入れないということは、今もなお「あの時のまま」を、自分に持ち続けているということだから。

これは現実なんだ、と。

そこから、夫という大きな存在を自分の中に取り込んで、味方につけて、自分らしい人生を歩むことが楽な生き方です。

あのときのままでいたら、きっと子供の笑顔さえ見逃してしまうかもしれません。

きっと自分の目の前には、幸せを拾える物がたくさん散りばめられています。

自分の覚悟、みたいなもの、自分がどこかのタイミングで腹を括る。

そうすると、毎日の似たような生活が違うものに変化していきます。

必ずです。

私たちは幸せになる、なってゆく、と決めて生まれて来たのだから。

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