パンドラの箱

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<この記事を書いた人>

パパが亡くなって、一番きつかった事、それはきっと親にとって自慢の娘ではなく、誰にも言いたく無いような現実を背負ってしまった娘である、と思い込んでいた事。

それがベースにあると、きっと何もかも捉え方がそっち寄りになります。
母のひと言ひと言に傷つき、落ち込む。
でも私はそれを母には見せられない。
そんな感じでした。
昔から母は器用で何事もソツなくこなしていました。
いつしか母のようになりたいと思って尊敬していたし、それに近づけば褒めてもらえると思っていたんだと思います。
でも、その道から外れ、夫を若くして亡くして、苦労を自分のみならず親にもかける事になります。
それが私にとってとてもきつかった。
親子間って適度な距離感がある方がちょうどいいと私は思っています。
次男が1歳になる直前に、パパと子供達を連れて箱根に行きました。
私は
これでやっと家族になっていくな
とジワジワと実感した日でもあるのです。
親からのお手伝いもお願いする頻度がへり、これからは自分達夫婦の人生がつむがれていく、そんな感じです。
それなのに、です。
その2ヶ月後、パパはいなくなってしまいました。
そこからは、母の協力無くしては生活を立て直すことができず(お一人で頑張っていらっしゃる人がいたらごめんなさい)、母を初めて独占する事になるのです。
でもとても明るくなんていられない状況で、母と毎日顔を合わす日々。
母は淡々とやるべきことをこなし、私を見守ってくれていました。
それは今でも感謝しているし、ありがたかった。
でも、いつも「でき過ぎた」母がいました。
だから、つねに「出来損ない」の娘である私を感じざるを得なかった。
母と私は他人には言えないような悩み(身内の事とか)を話していましたし、子供たちも小さくて、まともに話せる相手が母だけだったので、どんどん密接になっていきます。
がんじがらめになる感覚。
だから母の価値観が見えてきます。
私は母に価値観を示された記憶もないし、本当に何も言われずほったらかしで育てられました。
なにが正しくてなにが間違っているのか、それを肌感覚だけで判断するしかなく、なにをしても褒めても怒られもしなかったので、いつも正解が分からず不安でした。
でも、母と話していると、
人って見た目がどうしたって大事じゃない?
と言ったり、
友達の娘さんが検事さんで、国のために役に立っていて、立派な仕事だ、
とか、それだけじゃないですけど、
え?そう思っていたの?
ってことがオンパレードになっていくわけです。
私は中学の時に太っていて、からかわれた事もあるし、勉強だってほめもされずやれとも言われずほったらかしでした。いつも中の中っていうところでしたね。
そう言う価値観を持っていたなら、言って欲しかった、と思って彼女に不信感と、私がそう言う娘でない事、立派な自慢できる娘になれなくて申し訳ないような罪悪感に苛まれるようになって行くのです。
今までの、母の育て方、私への関わり方、そういう過去の自分の不満やさみしさ、そういうものが一番奥にあったのです。
そして、それがわかった途端、とてもとても怖くなるのでした。
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