考え過ぎてしまうことに疲れたら

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<この記事を書いた人>

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遺された私たちは「生きる」

生きているし、生かされている。
何かの命をいただきますと言って、生きている。
せっかく生きるならどう生きるか?
私は、いつもそんなことを考えているように思います。
でもね、考えるって余裕があるとも言えます。
時間的にでも、ある意味生活にも、忙しいと言いながらも、考える隙があるとも言えるかな。
それこそ、死別してすぐ、手続きをしたり書類に追われたり、子供を育てたりしていた時のことはあまり記憶にありません。
悲しいとか辛いという「感情」はあったけど、考えることなんてできるほど余裕はなかった。
「TO DO」がありすぎて、こなすだけの毎日でした。
私は、考える余裕なんてなかったんだと思います。
今となれば、それをこなしまくった自分が、今の「どう生きるか」を考える自分の土台になっています。
こなすことができたという自分を、いい意味で受け入れられているから、どう生きるかを前向きに考えらえるのかもしれません。

考えすぎは余裕があるあら

色々考えすぎちゃうって言うのは、ある意味余裕があるのかもしれませんね。
考える暇もないくらい動いて動いて、そして彼の夢も見れないくらい深く寝る。
その時間は、死別直後にあの辛さと真正面から向き合い過ぎず、向き合う心身を筋肉を鍛えるかの如く動くことで取り戻し整えていたのかもしれません。
ポジティブでも、ネガティブでも考えすぎなのは、余裕の表れ。
少し考え過ぎて疲れてしまうと思うなら、きっと心が疲れてて、体は疲れていなかったりします。
何事もバランスです。
心や頭が疲れたら、ちょっと寒いけど外の風に当たって動いてみると、「どう生きる?」と思い過ぎず、ま、元気ならそれでいっか、くらいに緩みます。
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