死別って言えない。

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<この記事を書いた人>

先日のランチでいただいた、デザートプレート。いちごが大好きな私は、いちごタルトだけお代わりしました。美味しかったなー。

私が夫を亡くしたのは2012年の10月。
ある意味、ものすごいベストタイミングで、子供達2人を春から保育園に入園させることができました。
夫が亡くなったタイミングが少しでもずれていたら、入園手続きの期日にも間に合わず1年を棒に振っていたかもしれません。
だから、私は4月から子供達は預け、私はどうにか動くぞという目的ができました。
引きこもり生活の終了の日が明確になりました。
そこまではぼちぼち引きこもり、4月からは頑張るぞという思考に変わりました。
だから、私の自立のスタートまでに、しばらく猶予が与えられたという事。
でも、仕事は見つからず、職業訓練学校へいくことになり、当面は母子の助成金みたいなものをもらいながら、生活の基盤を整える、そんな生活でした。
心の面はというと、かなりのコミュ障状態で、人とは話がまともにできませんでした。
自分の現状を伝えるのはどうしても難しい。
言葉にしようとしても喉がつまる。
言葉を失ったかのように、言いたくてもどう言っていいかわからない。
至る所で自己紹介をする機会はあるけれど、多くは語れず、子供がいることぐらいしか言えませんでした。
それが自分が自分を保つための最大の防御策だったと今は思えます。
そもそも人見知りの私が、ひとり親として(言い方悪いですが)世の中に放り出されました。
だから、急には変われ無かったんですね。
私は、何となく話せる人にぽそぽそと死別であることを話をしましたが、公に言うことはできなかったな。
だから、何となく素性のわからないコミュ障の人ってカテゴリだったと思います。
その時は、いつも自分だけが取り残されているような感覚があったし、孤独でした。
絶対に理解なんてしてもらえないと決め込んでいた。
でも、その中に、離婚後に旦那さんが亡くなったことをニュースで知ったという人だったりとか、それこそ今でも続いている同じ境遇の死別シンママに出会ったりだとかしたんですね。
そうやって少しずつ言える環境が出てきました。
何となく言わないと後ろめたい。
その気持ちはずっとありました。
でも言えなかった。
どうしても言葉にできなかった。
ただそれだけです。
それが私のあの時の最善策だったんですよね。
それでも、自分なりに精一杯生きていたと思います。
自分のできる範囲の精一杯。
きっとあの時の私は、起きて子供を預け、どこかに行って、その時のミッションをこなし、子供を向かいに行って帰ると言う生活だけで精一杯だった。
それが自分の限界値だったんだと思います。
思い返しても、あの時の言えばよかったとか、言わなくてよかったとかの明確な答えはありません。
でも、あの時、出せる力を出し切っていたし、懸命に生きていたなと思うんです。
それが今につながっていて、その今が良ければ全ての選択がオッケーになる。
 そして、経験が自分の指針になります。
それが定まってくる時だんだんと生きやすくな?のかな。
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